0.5の男の感想


0.5の男 全話観終わってちゃんとわかったけど再生の話だったんだな
1話を見た時、引きこもりの中年息子と初老の両親の同居と聞いて湧き上がるイメージに対して拍子抜けするほどお気楽な空気が流れていて、親子の間に過干渉とも不干渉とも違うほどよい距離感があった

社会通念を超越した家族像に思えて新鮮だったけど、最終話では、家族全員が確かに苦しんだ時間があったのだという歴史がにじみ出ていた
家族同士で葛藤や衝突を経た先にあった距離感だったのだとわかった

 

息子本人に心配や不安を悟られないよう、踏み込みすぎない それでも人との関わりを、自分のことをあきらめてほしくなくて、娘家族との2.5世帯住宅へ住み替えることに希望を託した両親

急いで答えを出させない、急かさないことは尊重であり、相手への信頼の証左だなと思う
それでも親から子への関わりでそれを実践することは簡単では無いと知っている
きっとこの関係性に落ち着くまでに長い時間が必要だったはず
自分たちの人生に終わりが近づいてきた実感がある中で、息子のことを思い講じることのできた最後の手立てが2.5世帯だったのだろうな
住み替えを決定事項として雅治に伝えるメモを用意するとき、軽快な口調と裏腹に母は目をつぶって祈っていた
そのあたりの描写に切実さを感じた

 

家族の定義も色々だけれど、生活を共にする誰かに何かあったとき、やっぱり家族としてパートナーとしてケアを行う必要が出てくる

引きこもることそのことは罪ではない、とりあえず生きていればいい
実際本人が何をどう思っているか確かめようもない
けどもしも本人が救いを求めているならば、できることはしたいと思わずにはいられない
一つを間違えると、取り返しがつかなくなるかもしれない恐怖を抱きながら
そんなのは祈りにならざるを得ないよ
星の子と地続きの話なのかもしれない

 

やっぱ人と人が長い時間一緒に過ごすと、色々あるんだよね
アイドルグループ見てても思うことだし
付き合いの長い友人、恋人との関係性においても思うこと

 

最終話、結局雅治はもう一度がんばろうと思えた
アルバイトをはじめて、クッキーを焼いて、保育士という目標を見つけて、再生が始まっていた
観終えていい気分だった
一方で、これはやっぱり幸運なケースだったのだと思う

隣の家に住む玉ちゃんはこれからどうなるのか分からない
消防士になるために頑張って勉強するといって、
大好きだったゲームを禁じられ、自分の意志で進路を決めたようには見えなかった

 

なんか別にこの物語の中では努力とかは語られてないので話が逸れるけど

自分が自分として31年生きてきた上で、努力だけですべての問題が解決できると認めるわけにはいかないという気持ちがある
努力は人を裏切らないという言葉は無責任だと思う

というか努力そのものが人を裏切ったり、裏切らなかったりするわけではなく、努力にのっかる期待にそう思わされるんじゃないかと感じる
そもそも何らかの期待をせずには努力すること自体不可能だけど、裏切られたと感じてしまうほどに託しすぎることは危ういと思う

 

きっと雅治も両親もそれぞれに努力はしていたけど、雅治が頑張る気持ちになったのは、それだけではないものが大きく後押ししたと思う

玉ちゃんと玉ちゃんの両親は、好きなものを断ち切ってまでする努力そのものに賭けている感じがして、じゃあその努力が望む結果にならなかったとき、残るものがあればいいけど立ち直れなくなることがあるとしたら、悲しい

別に物語の中でそんなことは全然言われてないのだけど、なんかそういうことを考えてしまう

 

頑張ったことがうまくいかないことは、思っているよりもありふれているはず
運とか、タイミングとか、自分の力ではどうにもならないもののせいにするべきで、努力にだけうまくいかなかった原因を求めるのはあまりにもしんどい
そうしているうちに人は本当に再起不能になってしまうと思う

 

努力という行為に期待をしすぎない
なにかが少しだけ変わるためのきっかけになればいい
じゃあなにに期待して生きればいいのかっていうと、よくわかっていない
逆に自分の力ではどうにもならないことに期待するのも、実感を伴わなくて虚しいかもしれないし
その虚しさを埋めるために人は努力するのでしょうか


別に0.5の男はこんな努力とかの話はしてなかったのに、自分への言い聞かせになってしまった

結論は無し
ただ0.5の男がおもしろくて、観てよかったという記録
おもしろい、丁寧に作られたドラマを観ることが最近の喜びです

ロイホにて振り返りクイック

気づいたら親になって一年たちそうなんだけど、他人は思い通りにならないですね というか思い通りにしてはならないっつーことだよね

他人を思い通りに動かそうとすること自体間違ってる 赤ちゃんなのである程度の導きは必要だけど、相手が意思を持つひとりの人であることを忘れてはいけない 所有物と勘違いしたり自分と同化したりはいけない とかとか最もらしいことを色々考えるんだけど、これらのことを念頭に置きながら保護者として、親としての自分の感情や行動をコントロールすることがちょーーー難しい 本当にこの一年ってただそれとの闘いだった 子どもへの言動がすべて自分に跳ね返ってきてボロボロになった

言葉を介さないコミュニケーションを見下してるんだなとか、ルッキズムから全然抜け出せないなとか、自分自身の気付きたくなかったことに気付かされたあまりにも沢山

他人と比べないことの大切さ、何に置いても別に言われなくてもわかるようなことだけど、比べることを辞める為の努力が本気で必要だと思ってる

自己嫌悪に陥っているというより、もうただこれが今現在の自分ですと受け入れられるようになってきたので、少しでもまともになれるように励んでいけたらいい 新しい価値観が芽生えてくるかもしれないし まあそれだけじゃないけど子どもが可愛いのは紛れもないしね

結局子どもが産まれても自分が生きてるのは自分の人生だな、あたりめーだけど いい意味でも悪い意味でも自分中心だなあたしは おわり

イリチルは真心

THE UNITY 大阪公演の初日と東京公演の初日に行ってきました

イリチルの楽曲や出立ちから視覚的に伝わってくるカッコよさに関してはもう一旦置いとくかって感じ 無理だから 言語化が 愛してます

そこ以外で今回のコンサートで思ったこと

人の善意や誠意が目に見える形をしていて、しかもそれに触れられる機会って普段あんま無いじゃないですか

だけどイリチルはそういうの全部をくれるんだよね…

一人ひとりが間違いなくスーパースターであるけども、メンバーとの、ファンとの関係性においてめちゃめちゃ真心を見せてくれるわけ

真心なのよ、結局…

マジで

真心なのよ

イリチルは真心

 

これは本当にふざけじゃなく、だから自分にとってイリチルは特別で、だから大好きなんだと思い知りました

なんか最近というかここ5年くらい特に?本心を開示する行為自体が冷笑の標的になってしまうかもという不安をずっとうっすら持たされてる感覚があって、世の中から どんな本音も“お気持ち表明”に回収されて有耶無耶にされてしまう風潮があるじゃないですか(感情に言及することで論点や責任の所在をすり替えるやり方へのカウンターとしての風潮だと考えると理解はできるのだけど) 長年そういうムードを内面化した結果、思ってる事を発信することがものすごく勇気を要する行為になった気がして、とりあえずなんか意味とかセンスが込められてるっぽく見える単語や写真だけ載せとけばスベらないかなみたいな

すべてを開示する必要はないししたいとは思わないけれど、言語化以外に手段を持たない自分のような人間にとっては、日々生まれる瑣末ながらも膨大な数の気持ちをただただ持て余すだけの状態になっていて 私はとりとめのない気持ちほど他者と共有することに喜びや親密さを感じるからこそ、こういう現状に対してなんかずっとつまらないなーという気分だったんですが

だからなのか、イリチルがパフォーマンスや言葉に乗せてリアルな感情を見せてくれる、あるいは意図を超えてはみ出てきていることにめちゃくちゃ新鮮に感動したんだよね 生きることの醍醐味みたいなものが躍動している感じがして やっぱり人って気持ちを交換してなんぼなんじゃん泣みたいな 自分がその主体になれないとしてもこういう生きることのダイナミズムを感じる場面が必要だよ、とかも思ったし、全然

イリチルそのものと公演自体に冷笑的な類のものを一切寄せ付けない強度があって自分も全力で心からの「大好きー!」「かっこいー!」とか叫べるし、これが幸せじゃなかったらなんなんだと思う そういう時間を過ごせることに意味を感じざるを得ないし、明日からの自分に少し期待して生きていける気分になるんだよね アイドルから力をもらうってよく聞く言い回しだけど、私にとってはこの事を言うんだなと実感しました

だからアイドルを好きでいることや応援する行為って副次的に、時に一次的に自分を奮い立たせるものだと思うんだけど、一方でファンという自分の存在そのものがイリチルたちの自負心を支えているという実感もあって、決して一方通行でない人同士の相互関係が成立していることにも改めて感動しました コンサート会場に居るとここに“推し”と“推し活”という言葉だけに収まりきるような情景は何ひとつないのではと思う(推しという呼称には常に違和感がつきまとう)

 

大阪公演の時にテヨンが、僕たちとシズニはそもそも人としてそんなに大きな違いはないじゃないですか、というようなことを言ってたんだけど、本当に同じ時間を一緒に生きてるんだなと思う イリチルが頑張ってるから頑張ろーつって そういう親密なエンパワメントをくれる存在ってほぼ友人ですよね

イリチルは友人

かつ真心

真心ってなんだろう〜♪って歌、あれ、イリチルのことです

 

大好きなテイルさんが不在だったことや、もう目の前に迫っている兵役についての複雑な気持ちはあるものの、良い気持ちを持ち帰れて、爽やか

次に観れるのは何年後になるか分からないけれど、その日を楽しみに待ちながら私も自分の人生を生きようと思います

また会おうイリチルいつまでも待ってるし大好きだよありがとうラブ

クレオパトラ

・子が産まれて自分が赤ちゃん返りした話

産院を退院後に里帰りしていたときのこと

新生児と24時間一緒に過ごしていて、夢と現実の区別がつかないレベルに睡眠不足だったんだけど、ある日子が昼寝してくれたので同じ部屋で横になってうとうとしていたら、寝ているときの自分が新生児と同じ動きをしてることに気づいた

新生児の腕の曲げ伸ばしとか、身体をくねくねするとか、ミルクを飲むときの口の動きとかを、なぜか寝ながら模倣していた(意味不明のホラー?)

無意識下でのことなので自分でもよく理解できてないんだけど、模倣しているというより新生児そのものになったんだあたしはみたいな気持ちになっちゃってて、産前には絶対にしたことのない動きを本能的にやっている感じで 眠りながらも自分の客観的な部分の人格が〈えっ?なんか、あたしも赤ちゃんになってない?!〉という感想をはっきりと抱いたことを覚えている

この睡眠時限定の謎の赤ちゃん返りはこの日から1週間くらい続いた 産前ありとあらゆる育児漫画、レポを読み漁っていたがさすがにこういう事例は出てこなかった 産後の精神がギリギリすぎて、ちょっと危ない領域にいっちゃってたのかな? にしてもどういうこと?

この件については100%実話でありながらも人に理解される自信が全くなく、今まで家族にも友人にも誰にも話してこなかったけど、個人的にちょっと面白いし忘れたくなかったので、こういうことがあったということだけ書き残しておきます マジでなに?

 

・布団に入り目を瞑っているつもりの時気付いたら部屋の天井が見えてびっくりする話

目を瞑っているつもりなのに実は開いていたってことありませんか?

あたしはよくありますし、その度にウケてます

 

・子が寝かしつけ中にボイパを始めた話

寝かしつけ中にうとうとしてきたタイミングで、「プシュー・・・プップップップッ・・・プーッ」という調子で明らかに一定のリズムに乗せて唇の運動を行うようになり、ボイパだと思いながら聞いています 同じ音しか出せなくてかなりかわいい、赤ちゃんのボイパ 赤ちゃんのボイパ?

ボイパと聞くといつもラグフェアーのおっくんを思い出します 今はボイパといえばヒカキンなんだよね、多分 それも古いのかな でもあたしたち世代はおっくんだよね それか中丸雄一?

 

こういうくだらない脳直の文章を書いていると、なぜ自分がヤーレンズを好きなのかめちゃくちゃわかるよね ヤーレンズ本当にすき

おわり

ダンボ

コロナの後遺症で咳が止まらずあまりにも眠れない夜、Twitterで検索してヒットした“中指の第二関節にアルミホイルを巻く”という眉唾な民間療法を実践した 意味不明だな…と思いながらも祈る気持ちでアルミホイルを巻いていて、〈星の子〉のことを思い出した 幼い子の病気が“特殊な水”で良くなり、それきっかけに一家ごと新興宗教にのめり込むという状況に歳月を経てすごくシンパシーを抱いた

今回もだけど物理的な痛みやしんどさの前で平常時のあらゆる判断基準が失踪する体験を何度もしている ギリギリの状況に追い込まれたとき、普段はしない選択をしたうえで症状が和らぐとか物事がいい方向に進んでいくと、そこに因果がなくても意味を感じずにはいられないと思うんだよな

苦しんでいる主体が幼いじぶんの子どもに置き換わった場合のもどかしさは想像するだけで気絶しそうだし 心理的に不安定なとき、ただの偶然を意味深い啓示として受け取ってしまいそうで、それがたとえば宗教にハマるきっかけになったりとかいうことを全然リアルにイメージできるなあと思った 

 

自分に関してはそれでなくても普段からただの出来事を出来事として捉える、必要以上に意味を感じすぎないということが本当に難しくて、なにもかもに存在しない物語を編んでいってしまう しかもすべて悲劇なのでまじでつらくて、特に出産してからというもの毎日毎日子に降り注がれ得るあらゆる不幸の可能性について想像が止まらず、一種の精神病かもしれないと思ってたんだけど、この間Twitter川上未映子の言葉が流れてきて、うち、これかも、、、、、、、、、、、、、、、と思った

 

“知らないことを知って、楽しさや面白さの解像度が上がることもあれば、苦しみや悲しみの解像度が上がることもありますからね。だから私は昔から、読書は、なにかしらの覚悟のいるものだという気持ちを持っています。”

 

正直、目から鱗でした(この慣用句実際使うとウケる)

ただただ読書体験、あるいはドラマや映画などのコンテンツを通じて必要以上に苦しみや悲しみのパターンを知ってきてしまって、今の悲劇メーカー状態はその弊害なのかもという気がしてきた もはやこの苦しみ悲しみの解像度の高さを完全に内面化してしまってるけど、対極にある幸福の解像度をブチアゲれば相殺できるのかな 今後の課題だ

 

思いのままに書く、というのを目標にしているので、支離滅裂かも フィーリングで

なんか結局自分のこと書いちゃうよね テーマがないから

おわります

チェストパス

クリスマス直前、子の発熱を皮切りに家族全員がコロナに罹り9日間寝込んだ

12月に入ってすぐ夫が『今年一年誰も風邪を引かなかった、すごい』と妙にはしゃいでいたときから、これは絶対にデカイのが来ると予感していました 体調不良ってこういう発言をした人から陥っていくのが地球上のルールだから

妊娠初期以来の本格的な不調だったけど、寝込んでいる時に毎回思うこと

第一すぎ、健康が(なさすぎ、かけがえが)

 

0歳児も予防接種の軽い副反応を除き初めての発熱で、苦しんでいる姿を見ると心苦しかった こうしてヒトは免疫を獲得していくんよ、がんばりなさい…とも思ったけど、コロナには罹らないに越したことはなくやはり済まない気持ちだった 熱は2日足らずで下がり咳も落ち着いたのでひとまず安心している

 

療養中は実家からの差し入れで生き延びていたのだけど、差し入れ量と頻度が最高潮を迎えた一時期自宅が舞台の千秋楽を迎えた芸能人の楽屋になってました

実母は普段から私と会うための口実として贈り物の形をとることが多く、本人が散財好きというのも大いにあるけど、車で10分の距離なのにわざわざお金で私(と孫)に会う為の理由を買っていると思うと苦々しい気持ちになることがあった

物だけじゃなく手の込んだ料理を用意してくれたり、ありがたいけどこんなにしょっちゅう?みたいな頻度で、それでいて持って行くね!という強引さはなくあくまでも食べる?とか要る?とかいう配慮した聞き方をしてくれるので、なおさら断れる訳もないとイライラしてしまうこともあった

全体的にケアされすぎているかも?という疑問とそれに対する居心地の悪さを感じることが増えていて、それは自分が大人に、そして親にもなったからもっと自立しなければという思いと共に強くなった気持ちでもあるんだけど、今回の差し入れを受けて、なんか突然、母からの贈り物はそのまま何も考えずありがとーーー!で受け取るようにしよう、と思いました

母との関係や母についてはいつもあまりにも考えすぎるので、もうそういうのは一旦やめて、向けられる愛情をそのまま素直にありがたがろうと思います 今はそういうモードだし実際ありがたいので ありがとうお母さん!

 

寝込みながらもM-1を敗者復活戦から観た ヤーレンズおもろ〜とか、夫は全然インターネットを知らないのに真空ジェシカの大ファンなの謎だよなとか楽しんで観れた一方、端々にキツイ要素が増えすぎていて疲れた それで翌日以降の松本人志の報道 本当にキモくてキモくて、スピードワゴンの小沢のことは普通に好意的に見ていたので人の悪意にショックを受けて、なんかもうお笑い、いいかもってなった 

キングオブコントでも思ったんだけど、ニッシャとかもはやちょっとダサいと思います 全然面白くないです 踏み込んだ笑いみたいなところに攻め込むだけのセンスも気概もないと思います ムカつく

 

最初の記事だけど、悪口で終わっちゃった

このブログ続くかわかりません

柴田聡子のインタビューに影響されて衝動的に書きました