ダンボ

コロナの後遺症で咳が止まらずあまりにも眠れない夜、Twitterで検索してヒットした“中指の第二関節にアルミホイルを巻く”という眉唾な民間療法を実践した 意味不明だな…と思いながらも祈る気持ちでアルミホイルを巻いていて、〈星の子〉のことを思い出した 幼い子の病気が“特殊な水”で良くなり、それきっかけに一家ごと新興宗教にのめり込むという状況に歳月を経てすごくシンパシーを抱いた

今回もだけど物理的な痛みやしんどさの前で平常時のあらゆる判断基準が失踪する体験を何度もしている ギリギリの状況に追い込まれたとき、普段はしない選択をしたうえで症状が和らぐとか物事がいい方向に進んでいくと、そこに因果がなくても意味を感じずにはいられないと思うんだよな

苦しんでいる主体が幼いじぶんの子どもに置き換わった場合のもどかしさは想像するだけで気絶しそうだし 心理的に不安定なとき、ただの偶然を意味深い啓示として受け取ってしまいそうで、それがたとえば宗教にハマるきっかけになったりとかいうことを全然リアルにイメージできるなあと思った 

 

自分に関してはそれでなくても普段からただの出来事を出来事として捉える、必要以上に意味を感じすぎないということが本当に難しくて、なにもかもに存在しない物語を編んでいってしまう しかもすべて悲劇なのでまじでつらくて、特に出産してからというもの毎日毎日子に降り注がれ得るあらゆる不幸の可能性について想像が止まらず、一種の精神病かもしれないと思ってたんだけど、この間Twitter川上未映子の言葉が流れてきて、うち、これかも、、、、、、、、、、、、、、、と思った

 

“知らないことを知って、楽しさや面白さの解像度が上がることもあれば、苦しみや悲しみの解像度が上がることもありますからね。だから私は昔から、読書は、なにかしらの覚悟のいるものだという気持ちを持っています。”

 

正直、目から鱗でした(この慣用句実際使うとウケる)

ただただ読書体験、あるいはドラマや映画などのコンテンツを通じて必要以上に苦しみや悲しみのパターンを知ってきてしまって、今の悲劇メーカー状態はその弊害なのかもという気がしてきた もはやこの苦しみ悲しみの解像度の高さを完全に内面化してしまってるけど、対極にある幸福の解像度をブチアゲれば相殺できるのかな 今後の課題だ

 

思いのままに書く、というのを目標にしているので、支離滅裂かも フィーリングで

なんか結局自分のこと書いちゃうよね テーマがないから

おわります